最近、ガードレールが気になっている。
道路の端にあって、車道と歩道とを分けている、白っぽく武骨な物体。
もちろん、以前からガードレールのことは知っていたし、いつも何気なくその脇を通ってはいた。
それが、この度NHKの「探検バクモン」という番組の制作で、新たなガードレールの基準を定めるための実験を取材することになり、俄然、気に掛かる存在になった。
そもそも、いま「ガードレール」と書いたが、現在、道端にある多くは、正確にはガードレールではない。
直径5センチ弱のパイプを、横に3段渡した「ガードパイプ」が増えているのだ。
平べったい一枚板のガードレールは、向こう側が見えず、端にある反り返りに引っかかる危険もあるが、ガードパイプの場合、そうしたことはなく、見通しが利いて、景観をあまり損なわない。
そのため、ガードレールに代わって、このガード「パイプ」の設置を増やしているという。
そうした事実を知って、改めて、日々会社に向かう道を見直してみると、確かに、そこにはガードパイプがずっと続いていた。昔ながらの(?)ガードレールはあまり見当たらない。
私が子供のころは、ほとんどガードレールしか見なかったような気がするのだが、いつの間に…と思ってしまう。
さらに言えば、ガードレールでもガードパイプでもない、第三の構造物まである。
それは「横断防止柵」なる代物。
見た目はガードレールなどにきわめて似ているが、その名の通り、歩行者の道路横断を防ぐためのもの。
これらは「横断防止柵」
ガードレールなどが、車が衝突した時に、歩行者やドライバー自身を守るためのものである(そのために、厳しい構造基準が定められている)のとは、そもそも目的が違うのだ。
それを知って、また改めて普段の道路を見つめてみると……あるある、「横断防止柵」が、けっこうある。
その形は、パイプ状だったり、ガードレールっぽかったりと、様々だ。
ただ、支柱との接合具合などからしても、ガードレールのような頑丈さは持ち合わせていないように見える。
―心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず―
――これは、古代中国で編まれた儒教の経典『大学』に見える一節で、この後「聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず」と続く。
「心が上の空であったなら、ものを見ても見えず、聞いても聞こえず、食べてもその味が分からない」
あるいは、
「関心のないことは、注意して見たつもりでも実は目にとまらず、注意して聞いたつもりでも実は耳に残らず、物を食べてもその味がわからない」
といった意味だという。
ガードパイプは、普段から通勤の際に私の目に入っていたはずなのに、それがガードレールに取って代わりつつあることを意識せず、横断防止柵というものには色々なタイプがあることも、見えてはいたはずなのに、きちんと認識していなかった。
まさに、視れども見えず、の状態に私があったということだろう。
同じようなことは、皆さんも色々なところで経験されているのではないだろうか。
さらに、こんなこともある。
住宅街などを歩いていると、ちょうど今の時期、沈丁花の甘くかぐわしい香りが漂ってきて、あ、あんなところに沈丁花の木があったのか…!と気づかされることがある。
同様に、秋の澄みきった空の下、流れ来る金木犀の清々しい香りがその存在を教えてくれるのも、毎年のように経験する。
ガードレールの話とは少しずれるかもしれないが、年中目には入っているはずの沈丁花や金木犀の木も、その香りによってはっと気づくまでは、「視れども見えず」の状態だったと言えるだろう。
さらに言えば、かの桜の木だって、花の時期以外は案外地味な存在にとどまり、人々の目に留まることは少ないのではないだろうか。
世の中には、普段なかなか気づかないが、本当は美しいもの、興味深いもの、楽しいものが、まだまだ埋もれているはずだ。
また、現代社会の様々な現象の背後には、意外な「真実」が横たわっていることもあるだろう。
そうしたことに気づくには、「花」が咲き、「香り」が漂ってくるのを待っているだけでは勿体ないし、危ういこともあろう。
では、どうすればよいのだろう?
その方法の一つが、学び・教養ということではないだろうか。
私のガードレールの例は些細なことだが、取材というきっかけがあっていささかなりとも学んだことで、その実情を知り、少し「見える」ようになった。
それによって、日常の景色が僅かでも豊かになったし、現代日本の道路事情を少し体感的に理解できた。
こうしたことの積み重ねが、大げさに言えば、人生を豊かなものにしてくれるのではないか、と思う。
その、学びの方法は色々だろうが、一つ、お勧めの手段がある。
それは、「放送大学」。
(わが社も、その制作に関わらせていただいています。)
誰でも、テレビやラジオで、当代一流の学者・研究者の講義を「視聴」できる。
家にいながら、どんどん、知識や教養を深めることができる。
その積み重ねによって、きっと、日常の景色が違って「見えて」くるはずだ。
啓蟄を過ぎ、生き物がうごめき出す時季。
花開き、木々がその存在を主張し始める季節。
放送大学も、新学期を迎え、様々な科目が新たに開講される。
あなたのお気に入りの科目が見つかったら、気軽に受講してみては如何だろうか?
きっと、知識という花を咲かせ、その後には、多様な発見という実りが得られることと思います。
T.K.